ドン・クラブ氏ご逝去の報

呉橋 真人

 ドン・クラブ氏, Mr. Don Crabbが8月8日(土)にクライストチャーチ市のVilla Gardensで亡くなったと連絡がありました。


1990年代、川瀬会長の情熱の結晶「クライストチャーチ・フェスティバル・オブ・ジャパン」が5回開催されました。 毎回実行委員会議長を務めたのがドン・クラブ氏でした。フェスティバルには日本からは延べ2200名が渡航、現地の観客動員数は30万人を数え、川瀬会長は日本国外務大臣表彰を受けました。名誉会長(Patron)はクライストチャーチ市長と日本領事でしたが、実際の仕事をすべて行う実行委員会は、クライストチャーチ市、商工会議所、教育関係機関、日本びいきのボランティアからなりました。

 私は何度か委員会ミーティングに出席しましたが、「会議とはこうやっておこなうものか」と目から鱗の連続でした。議長の役割と権限が大きく、時間管理をしながら、問題解決への筋道を示し、不規則発言を封じ、次回への課題を委員へ割り振り、決められた時間に終了します。それをセクレタリーがミニッツと呼ばれるメモにまとめます。

 会議が終わると必ずお茶とビスケットが用意せれている別室で雑談の時間がありました。これは典型的な英国型の会議の進め方であり、学校でも習うそうです。「NZの会議はどこでもこのように見事に行われるのですか?」と聞くと「議長次第だ。Donは本当に優秀な議長だ。」とのことでした。 当時ドン・クラブ氏はリンカーン大学の生涯教育センター所長でした。外国との交流や留学生受入も彼の部署の仕事でしたので、日本やアジア各国へもよく出張しました。日本には20回以上いらしていたと記憶しています。

 彼とは、日本のあちこちへ旅行しました。安宿に泊って、夜、飲みにいって、土地の人たちと盛り上がるのが好きでした。ほんの少し片言の日本語を話しました。それで充分楽しめたようです。近江八幡では私が寝てしまったので、一人で出かけて朝帰りしていました。

 「す、すいません。○○は日本語で(英語で)何といいますか?」がお得意のセリフで、単語を増やしていきました。私たちもよくこのセリフをマネして遊びました。

 あまり過去を語りたがりませんでしたが、若いころからかなりの期間、国連軍士官(NZ軍から派遣)として働いていました。イスラエル、レバノン等に駐在して、かなり危険な目にもあったようです。右耳が聴こえないのは銃の暴発によるということでした。永い軍歴のためか彼はO.B.E(Order of British Empire)受勲者でした。川瀬先生のQSO(Queen’s Service Order)より一つ上級の勲章だと思います。

 ドン・クラブ氏は大柄な赤顔で、社交的で愛想がよく、女性にもてました。離婚歴があり、二人の成人した娘がいました。いつもガールフレンドがいてパートナーとして同居していました。私が知っているだけで3人です。 一方、心の中になにかのわだかまりがあり、破滅志向の性格がうかがえました。家ではかなり深酒をするようでした。

 1999年川瀬先生がクライストチャーチで亡くなったときは、駆け付けた遺族に終始つきそい、慰め、そして現地での葬儀について相談にのってくれました。 2003年9月6日、フェスティバルのセクレタリーをしてくれていたEuan Hundlby氏が亡くなりました。葬儀に駆けつけた私の面倒を見てくれたのもドン・クラブ氏でした。葬儀の終わった夜、彼の家に泊った私に彼は30分毎に「今日は何曜日だっけ」と問います。すこし奇妙な顔をした私に彼は「アルツハイマーにかかっている」ことを打ち明けました。

 葬儀は8月12日午後1時、セントアンドリュースチャペルで行われました。「日本の友人たちより」というカードをつけて花束を送りました。棺の上に置かれたそうです。とても多くの方が参列されたそうです。 ドン、天国でDr Kawaseと二人でいつもの「リンカーン大学は最高」を語り合ってください。Dr Kawaseはちょうど10年先輩だから、あの杖で指示しながら、天国の名所見物ツアーに連れていってくれますよ。ドン、天国ではアルツは治っているよね。あとから来る奥さんやたくさんのガールフレンドにだれを選ぶのよと迫られたらアルツのふりをしょうね。



ドンの自宅からダイヤモンドハーバーの日暮れ