日本ニュージーランド協会創立50周年記念講演
ならびに祝賀パーティー

   − 出席レポート −

日時  2009年1月15日(木曜) 午後6時より
場所  東京ニュージーランド国大使館

素晴らしかったNZ大使館での祝賀会に出席された方々のレポートです。
             
会長 柳田 勘次

とにかく、来てよかったというのが、日本ニュージーランド(NZ)協会の50周年祝賀会でした。柳会長は主催者を代表されて、故川瀬勇博士が日本NZ協会の副会長として活動されたことを紹介され、関西の私どもに温かい配慮を示してくれました。また藤村e子さんに、ドクター川瀬の遺族として挨拶の機会を与えてくれたのも、私どもには嬉しいことでした。

イアン・ケネディ大使も祝辞でドクター川瀬の功績を称えられましたが、これも関西から参加した14名には、大きな励ましになったと思います。同時に、私ども関西が提言した50周年記念への協賛を温かく受け入れて、プログラムを組んでくれたのも身内ならではの好意でした。

くわえて、私が挨拶のなかで「今日はドクター川瀬のひ孫である藤村朋(とも)香(か)ちゃんも参加していますが、彼女はまだ一歳ですから、50年後の日本NZ協会の100周年にも参加してくれるでしょう。そういう意味でいえば、東京と関西の二つの協会は過去、現在、未来と末長く協力関係がつづくと確信しています」と述べると、会員の皆さんは拍手で応えてくれたものです。

最後に、柳会長と實吉副会長が関西の40周年記念行事に協賛し、参加するといってくれました。また、マーク・ピアソン公使の「関西の40周年には参加したい」というお話と、美味しいNZワインとラムとフレンドリーな会話もあり、全てが楽しみに満ちた夜でした。そのために、関西の出席者は40周年を新たな発展の契機にするという、強い意欲を湧かせたものです。

副会長 松元 f

関東の日本ニュージーランド協会が2009年に設立50周年を迎えるにあたり関西も一緒に祝福したいというのが関西の会員の希望でした。そこで2008年初めに私が関東との話し合いの窓口になるように要請されました。実際の設立記念日が2009年の後半(11月2日)であることや関西で解決しなければならない事柄があったりして実際に東京の實吉悦子会長にご連絡申し上げたのは11月初めでした。

その際、関東が2009年に創立50周年を迎えられることをお喜びし関西も一緒に祝いたい旨をお伝えしました。会長は大変お喜びになりこちらの申し出を心より歓迎するとのお言葉を頂きました。祝賀会は設立日以降に実施されるものと勝手に判断していましたので「祝賀会は来年のクリスマス頃になりますか?」とお話したところ、「ニュージーランド大使館もこの祝賀会に加わりたいとのことですが、大使館のスケジュール上2009年の3月頃か、早ければ1月になりそうです」とのご返事に大変驚いた次第です。早速柳田会長や呉橋事務局長にこの事をお伝えしました。

その後、實吉会長から祝賀会を関西との協賛とすることや開催が1月15日に決まったとのご連絡を頂き関西の迅速な対応が求められたのですが呉橋事務局長を始めとする各位の反応は素早く12月末にはほぼ関西の準備は終わったのです。当初、實吉会長から関西からの参加者数を問われた際に「多分5、6名でしょう」と答えたのですが実際の参加者は16名となりました。嬉しい誤算でした。

関西の協賛となった祝賀会では柳田会長や藤村e子様のスピーチも求められましたがお二方ともお話は参加者が聞き入る素晴らしいものでした。関西からの参加が祝賀会を大きく盛り上げたことは間違いありません。協会の柳弘新会長、實吉前会長には改めて関西からの多数の参加を感謝下さり、関東と関西の協会が川瀬先生を生みの親とする兄弟の関係であることを強く感じた次第です。

最後に、関西の設立40周年に当る2010年には関東からもご協力下さるとのお言葉も頂戴しています。今後両協会が共に発展していくことを確信する次第です。

副会長 山田輝子

 祝賀には関西からは松元副会長のご尽力により協賛という形で16名の会員が参会いたしました。

 当日の東京は前日とは打って変わり大変寒い日で、午後5時15分に渋谷ハチ公前で皆様と待ち合わせ、大使館にむかいました。閑静な住宅街にある大使館は夜目にも堂々として見えました。玄関ホールまでの素敵なアプローチを抜けホールにはいりますと、マオリの彫刻がほどこされた柱、壁が目に入り、やはりニュージーランドの匂いが感じられました。このホールで当日はパーテイが開かれました。

 最初にイアン・ケネデイ・ニュージーランド大使が50年前に協会の設立発起人4人のメンバーの一人である川瀬博士の名前も織り交ぜ、先人の立派な趣旨が50年の歴史を刻むまでになりこれから更に両国の友好、親善の発展を希望する旨のご挨拶がありました。次に柳田会長がご挨拶されましたが、とても立派なスピーチで日本ニュージーランド協会(関西)の存在の確かさが再認識されました。又、藤村e子さんのスピーチは川瀬博士にまつわるお話でしたが会場の皆様が大変興味深げに聞き入っておられました。

 その後マリンバ演奏や、太鼓の演奏の後、乾杯があり歓談となりました。会場は大変和やかな雰囲気になり、大使、大使後夫人もとても気さくにお写真のなかに入ってくださいました。とりわけ当日人気があったには、e子さんのお孫さんで、川瀬博士には曾孫になる小さなお嬢ちゃまでした。

 川瀬博士達の蒔いた種が50年で大きな木に成長しましたが、これからも木を枯らすことなく、さらに大木になるよう立派な趣旨を継承していかねばと、思い新たにしたパーテイでした。

 このパーテイを企画しご案内状を下さった日本ニュージランド協会の方々、又、招待状を下さった大使に心からお礼を申し上げたいと思います。

副会長 貴志康弘

 日本ニュージーランド協会50周年、おめでとうございます。また、ご招待いただき、本当にありがとうございました。

 日本ニュージーランド協会、ニュージーランド大使館、関係者の皆様の心暖まる記念パーティーに参加させていただき、楽しい時間を過ごすことができました。

 飛騨高山での40周年記念会から10年ぶりに再会できた方々との会話も忘れられません。水野さんは、日本ニュージーランド協会(関西)30周年の時に東京から来てくださり、終了後、一緒に神戸まで電車で帰りました。表情といい、話し方といい、当時と何も変わっていませんでした。黛さんの情熱あふれる話しぶりは、今回も健在でした。その他、多くの方々と接することができ幸せでした。

 日本ニュージーランド協会の方々、大使館の方々、関係者の方々と今後も友好を深め、変わらぬ友情を結んでいきたいと思いました。

藤村e子

 あの頃から早60年近くの歳月が流れていたのですね。このたび日本ニュージーランド協会創立50周年記念祝賀パーティーに出席して遠い昔を懐かしく思い出しております。
 戦中・戦後の慌ただしい時期を経て漸く世の中が落ち着き始めると、父の胸には堰を切ったようにニュージーランドへの想いが溢れ出たようでした。幼かった私にもニュージーランド協会設立にご尽力下さった黒澤氏、ケンリック氏、ブレージー氏方のお名前をよく口にしていた父の姿が残っております。当時はまだまだ遠い国であったNZが半世紀の間にこんなに親密な国となり、日本NZ協会も活発に活動が続けられていることはとても喜ばしいことと存じます。

 NZ協会(関西)も近く40周年を迎えるに当たり、先達の熱い想いを受け継ぎながらも関西独自の持ち味を生かし、よりよい方向に発展していくことを強く願っております。設立の理念である国際交流・友好・親善は国任せではなく、民間の私達にも出来ることは沢山あるはずですから。

 東京でお目にかかった会員の皆様は、元気よく、熱を込めてNZを語っておられました。あの夜は沢山のNZを愛する心を知った意味深い宴でした。

                             
藤村剛(ふじむらたけし)

 祖父がニュージーランドと日本の交流を促進し親睦を深めることを願って設立に寄与した協会が50周年を迎えた事、すばらしい式典に皆様のご厚意で参加させていただいた事、さらに会場で様々な方と祖父についてお話出来た事、そのような機会をいただきましたことを感謝申し上げます。

 もの心ついた時から、同居していた祖父の居間に飾られた国旗や写真、絵画やマオリの彫刻などに囲まれて暮らしてきたことに加えて、祖父の膝の上に座って、南国の理想郷に関する話をあれやこれやと聞いて育ちました。最初にニュージーランドを訪れた時、先に到着していた祖父と現地で合流し彼が学生時代を過ごした場所を二人で巡り、その道中、様々な話を聞きました。当時の彼と同じぐらいの年齢だった私は、懐かしい故郷に帰ってきたような不思議な気分になったことを今でも覚えています。私にとって訪れた回数はその1度だけなのですが、ニュージーランドは祖国である日本の次に身近に感じる国です。

 祖父が抱いたのと同じぐらい皆様がニュージーランドに対して愛着を抱くことが両国の関係を更にもっと良い方向に発展させてゆくことに繋がると思います。私が90歳で迎える100周年、ぜひその場にも居合わせたい、そうなれば良いなぁと思いますが、その前に先ず2度目のニュージーランド訪問を果たさねば・・と思っております。

藤村 健(ふじむら けん)

「藤村健です」というよりも、「1歳の娘、朋香(ほのか)の父です」と書かせていただいたほうが、お分かりになられる方も多いのではないでしょうか。朋香は我が家ではいつも姫ですが、まさか50周年祝賀パーティーの席で、シンデレラのように輝かしい姫にさせて頂けるとは思いもよらず、父・母ともに鼻高々でした(笑)。祖父に感謝です。

また、柳弘会長はじめ皆様から祖父の功績が紹介され、幼いころから傍で見ていた「おじいちゃん」と、祝賀パーティーで紹介された「川瀬勇」のギャップに少し戸惑いも感じました。私は1999年8月クライストチャーチで祖父が死去した際に、横にいた孫です。当時、NZの祖父の友人からは「KEN」と呼ばれるよりもDr.KAWASEの「Walking stick」と呼ばれるほうが多かったのかもしれません。

 祖父の死から2か月後の1999年10月、私は橋本龍太郎前首相(当時)の秘書として新たなる転機を迎えていました。2001年11月橋本元首相がPECC14(太平洋経済協力会議第14回総会)出席のため香港へ出張した際、ホテルの一室で橋本元首相・マイク・ムーア(第34代NZ首相)WTO(世界貿易機関)事務局長(当時)との会談がセットされていました。会談冒頭、橋本元首相より「彼の祖父は、日本で初めてNZに学生として留学をした人物です。今は私の秘書ですが、今日一日はNZ側の人間として取り扱っていただきたい」といきなり紹介され、しばらくムーア元首相と会話をさせていただいたことがありました。NZの元首相と聞き、事前に用意した祖父の母校のネクタイ。ムーア事務局長は私の胸元のLincoln Universityのロゴを指差し、「我が国で最も古く、最も優秀な農業大学だ!あなたの祖父は素晴らしいご経験をされ、日本に偉大なる知識を持って帰られたのでしょうね」と褒められたことがありました。

 約80年前に単身で海を渡った祖父。今と違って限られた情報の中で、自分の目標に向かってただただ突き進んだ祖父と今の自分を重ねたとき、その偉大さが身にしみる。「私は少しは偉いんですよ。死んだらわかります」そう言って笑っていた祖父の言葉が当時の私に重くのしかかったことを久しぶりに思い出した、そんな夜でした。

林 園子

 まずは大使館の入口に感激して会が始まれば来賓としての柳田会長の挨拶に又感激してワインお料理も美味しく頂き大使ご夫妻も気さくで感激ばかりでした
こちらも40周年の計画を頑張ってしなければと思いました。

西川 賢一

 東京のNZ協会との交流の場に参加するのは初めてだ。会長、大使、来賓の方々の祝賀挨拶、元駐NZ大使の記念講演の後、マリンバの演奏を聴きながら、和やかに会食、歓談がはじまる。

 はじめに声をかけてくれたのが神谷会員。3年前、英語留学でオークランドに滞在したとき出会い、学校は別だったが、シニア同士リスニングの苦労話などをした。協会や学会があることも伝えた。帰国後、当時会長の實吉さんに紹介し、入会された。實吉さんからはたびたび催しのご案内をいただいたが、ひとり大阪から参加するのも気恥かしく、実現しないまま今日に至った。お会いするのはこの日が初めて。

 ケネディ大使、同夫人、大使秘書の宮崎さんらとも、はじめて歓談できた。関西在住の者には、なかなか機会のないことであり、気さくなお人柄に触れて感銘をうけた。

 転職で東京に移られたキャサリンさんとも久しぶりの再会。

 会場の一隅でひときわ目を引いたのが、故川瀬博士の曾孫、朋香ちゃん(1歳)。人見知りしないお嬢さんで、カメラにもバッチリ収まっていただいた。20年後、成人した彼女はNZとどのような関わりを持っているだろうか、などと想像したりした。

美味しいNZ料理とワインをいただきながら、様々な人と交流を得て、名残を惜しみながら公邸を後にした。

三浦治郎

 本年度になってから、私は例会に全休でしたが、丁度日程に都合が良く出席しました。主目的は50周年のお祝いですが、ほとんど機会を得られないNZ大使館への訪問が楽しみでした。

 JRハチ公口を出ると、比較的込み入った街並みに、「こんな所に大使館?」と訝ったのですが、10分程歩いて曲がった途端お屋敷町でした。NZ大使館は庭を含むゆったりと、落ち着いた雰囲気にありました。聞けば、お隣が麻生首相私邸とか。安倍、福田歴代の私邸も近くにあり、後で調べてみると、「渋谷神山町首相私邸めぐり」のコースに位置していました。

 記念祝会で感銘を受けたのは、藤村e子さんの挨拶です。父川瀬勇を語るなかで、NZ協会歴史の原点は、私達(関西)が今もしっかり受け継いでいることでした。

 ケネディ大使ともお話をする機会を得ました。来年の(関西)40周年にはお招きするのでしょうが、それでは2年先のこと、是非今年中にご招待したいものです。
             
木下和子

 この度、ニュージーランド協会(関西)よりニュージーランド協会創立50周年祝賀会に出席出来ました事は、とても有意義な楽しい一刻でした。大使館に行く機会など思いもよらぬ事、好奇心もあり行けてよかった。

 最近の旅行は飛行機が多くて、久しぶりの新幹線の旅でした。行きも帰りも富士山がとても素敵に見られ、ラッキー。

 来賓の方々のお話も。New Zealand軍による進駐軍のお話とか。それと満州事変、支那事変とかは、家の古いアルバムの中にセピア色の写真があり、久しぶりの話をNZのパーティーで聞く事に驚きました。過去の歴史の一ページを感じました。

 盛会なパーティーで、良い東京みやげが出来て満足でした。NZに関り合った事によって、NZ、AUSTRALIAの方たちと知り合い、カード、レターの交換が出来ています。AUSのお友達には2ベッドがあるから何時でも大歓迎しますと云ってもらってます。とても素敵な友情が生まれております。協会に出席する事になって、また違ったお友達にも恵まれたと思います。

 ますますの会の発展と、良いお仲間と共に....
よろしくお願い申し上げます。 感謝


呉橋真人

 Dr川瀬ファンの私にとってはDr川瀬の名を聞く嬉しい機会でした。

 どんな人たちがどんな使命を感じ、どんな目的や希望を持って協会を設立したかを時々振り返って見ることで、路はまっすぐに続いていきます。彼らの直面した問題、その解決あるいは回避も参考になります。

 遠藤哲也元ニュージーランド日本大使の記念講演も日本とニュージーランドの交流の歴史を辿るものでした。NZと日本には直接の交戦がなかったので、大戦を経ても比較的良好であったとのご指摘がありました。

 私も呉市の郷土史家にお聞きしたことがあります。植民地を多く持った英国の統治政策においては、できるだけ現地人と接触しないことが原則でした。山口県に入ったオーストラリア兵は日本人との接触を嫌い「本日我々の農場がオープンした。これで日本人の糞尿で育てられたおぞましい野菜からやっと解放される。」という記録が残っているそうです。ところがNZ兵は接触しまくり、とてもフレンドリーだったそうです。

 佐野守(3代目会長、NZ航空初代支店長)氏のスピーチにはNZ航空乗り入れ前のご苦労が伺えました。

 黛雅男(第5代会長)氏が、クロージングスピーチで、「自分が会長だった時期は低迷期だった」と素直にお話しになりました。私は深い感銘を受けました。

 Dr川瀬が亡くなったのはクライストチャーチ。1999年8月24日でした。もうすぐ10年になります。

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