訃報 川瀬貴誉一様

 3月24日(月)、川瀬貴誉一様(かわせ きよかず 享年90歳)が天に召されました。日本ニュージーランド協会の創立者の一人であり、生涯名誉副会長、また日本ニュージーランド協会(関西)の初代会長だった川瀬勇博士(1908-1999)のご実弟です。京都大学卒業後、関西汽船に入社、またクリスチャンとして西宮教会を支え、社会活動にも熱心で、神戸YMCA理事、評議員として活躍されました。

 深い学識と優しい笑顔、軽妙洒脱な紳士。いつも誰かを励ましていらっしゃいました。1994年から4年間NZ協会(関西)の運営委員をしていただきましたが、いらっしゃるだけで雰囲気が明るくなりました。2006年、協会が激震にみまわれた際には、何度も励ましのはがきをいただきました。

 創立時からの会員として、長兄である故川瀬勇会長を支え続けました。かなりのご年配のご兄弟が、子供の頃そのままに話しをされ、気遣い合うのが、なんとも微笑ましかったものです。川瀬勇博士にとっては貴誉一様はいつまでたっても10歳年下の可愛い弟、貴誉一様にとって、川瀬勇博士は、いつまでたってもやんちゃな兄だったようです。

 ご遺族から協会へご寄附をいただきました。

 4月12日の例会では、総会前に、ご冥福を祈り、黙祷いたしました。 

 「ニュージーランドに魅せられて 川瀬勇追想遺稿集」へのご寄稿を下記に転載して、皆さまとご一緒にお優しいお人柄を偲びたく存じます。
                   (呉橋真人記)

外国郵便の宛名書き
         川瀬貴誉一

 勇兄と私とは年が十歳違う。私がオギャーと呱々の声をあげたとき、勇兄は小学三、四年生であったろうから、そのときから頬っぺたをつねったり鼻をつまんだりして、七十数年間かわいがってくれた仲である。みなさま方がよくご存じの事情で、大事な長男をはるか南瞑のまったく未知の新天地へ送り出した両親は、気がかり千万で、まめに手紙を書いた。いまのように直行航空便はなく、ニカ月もかかる船便しかない時代であったから、春書いた手紙の返事が秋に返ってくるというありさまであった。その外国郵便の宛名書きが、中学生の私の大仕事であった。

 兄がニュージーランドヘ行った第一の目的は羊の勉強である。それが牛になり、バター・チーズになり、結局、牧草に行き着いた。おいしい牛乳はおいしい牧草から生まれる。留学前に西宮の旧宅の庭で羊を三頭飼っていたことがある。柵を越えて植木の新芽を食べたり、ついに本を食べるに至っては、父親が苦笑していたことを思い出すが、兄には昔から牧場指向があった。中学校時代も学校が東にあるのに西へ歩き、「お多福山から六甲山へ行ってきた」と夕方帰ってくることがたびたびあった。いまでいえば、登校拒否とハイキングの元祖である。

 高橋調三兄が話したと思うが、北野中学校と甲陽中学校(次兄の進が卒業)の野球部員を中心に、当時の善良な(?)青年たちが自宅の二階を根城に「合宿クラブ」と称する梁山泊をつくっていた。煙草をプカプカ、雑談にふけるのを常とし、小学生の私と従弟の千足丈治君(故
人)が「仲間に入れてくれんか」とのぞくと、みな十代にもかかわらず、「十代は階下へ降りろ」とよく怒鳴られた。夏になると、その連中は奥池の寒天小屋へ米や蓄音器をかついでのぼり、夏休みの一ヵ月間、別天地で青春
を謳歌して楽しい若い時代を過ごしていた。
勇兄の留守中は、この連中が再々両親を訪ね、兄に代わって慰問してくれるかたわら、私の家庭教師に化けた。今日の私があるのは、この人たちのおかげと深く感謝している。みなさま方には興味のない名前だが、ここに記して敬服の意を表したい。河童、千万、モンジャ、ショコ、大砲、宝丹、仁丹、スカンク、眞公、猫八、ドラ、ベニなど。

 勇兄は概して申せば、はなはだ常識家。言い換えると、まさに紳士であった。もちろん、明治生まれの男であっただけに頑張り屋でもあり、六十の手習いで念願の作曲を始め、一応、モノになったことはご承知のとおりである。昨年二度の長時間にわたる大手術を受けた私の病気の折も、本当に涙を流して心配してくれたそうで、なかなかの弟妹思いの一面も持つ。

 実は勇兄と幽明境を異にした意識もなく、まだ西宮で元気にいると思えてならず、また本人がたいていのことをアチコチでお話ししたり書いてもいるので、みなさま方もよくご存じのことばかり。思い出話など、なかなか書きにくくて困ったが、ここらでお許しください。
                         (弟)

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