Sir Edmund (ヒラリー卿)のご逝去を悼んで
呉橋真人
彼の手のひらは私の2倍、靴のサイズは40cm以上あるように見えました。1995年頃のことだったと思います。クライストチャーチ・タウンホールでSir Edmundのパブリックレクチャーがありました。紹介してくださる方があり、私は、植村直己冒険館のことなど少しお話して(1992年にSir Edmundとファックスのやり取りをしたことがありました)、握手していただきました。訃報に接し、身長は195cmと知りましたが、顔、手、足の造作の大きさは2mを超える巨人の印象でした。あれ以来、あんなに大きな手足は見たことがありません。
レクチャーは彼の創設したヒマラヤ基金がネパールに建設した学校に関するもので、「いつまでも我々が経営、運営に関わるのではなく、5-10年目にはネパール人だけで、自分たちのものとして独立して存続するように、最初から計画することが重要」という内容でした。
クライストチャーチ市のカンタベリー博物館の南極探検展示室で最も大きな展示物は英国連邦南極横断探検隊(1955-58)の近代的な雪上車です。そしてその隣にはSir Edmundが率いるNZ隊(補給部隊として反対側から出発)が使用した農業用ファーガソン・トラクターが誇らしげに展示されています。Sir Edmundは探検隊本体より16日早く、1958年1月3日にこのトラクターで南極点に到着しました。アムンゼン、スコットに次ぐ3番目の快挙でした。この二つの展示を説明する時、NZ人のベイドゥン・ノリスさん(前南極部門学芸員)はとても誇らしげでした。
同博物館にはもう一つSir Edmundの展示があります。場所は階段の踊り場で、全く目立たないのですが、Sir Edmundの帽子です。それは彼がエベレスト登頂の際かぶっていた「養蜂家」の帽子です。Sir Edmund自身、自分はプロの養蜂家であり、アマチュアの登山家であると自任していました。
世界中に知られた有名人でありながら、ユーモアがあり、全く気どりのないところが、NZで絶大な人気を博するゆえんです。エベレスト登頂後の一言「I kicked the bastard off.あのろくでなしをぶっ飛ばしてやった」は、いかにもNZ人らしい庶民性です。彼こそNZ人が自分のmateとして誇れる理想のNZ人、国民的英雄でした。
ニュースで彼のインタビューの録音を聴きました。「自分はとても幸運だった。33歳での、エベレスト初登頂がキャリアの最初だったので、その後の探検やプロジェクトにたくさんの協力を得て、実現することができた。」自分の力や偉業を誇ることない謙虚な人柄が偲ばれました。エベレスト登頂のことを語る時はいつも「テンジンと一緒にWith Tenzing 」をつけることを忘れませんでした。
NZ中が深い悲しみに包まれているようです。
協会では柳田会長よりニュージーランドのケネディ大使へ弔電を送りました。
P.S. 尚、1月22日にオークランドで行われた葬儀(国葬)の実況中継ビデオ(約4時間)はNZのTV ONE http://tvnz.co.nz/ でご覧になることができます。デイム・マルビーナ・メイジャーの賛美歌独唱が印象的でした。1994年に当協会が主催した大阪ザ・シンフォニーでのコンサート(ニュージーランド日本祭キックオフコンサート)に来日出演いただいたニュージーランドで最も高名なソプラノ歌手です。なつかしく思い出さる方もいらっしゃることでしょう。最後には第二国歌を全員が歌いました。国葬とはいえ、親族の追悼スピーチが最も長く(ユーモアがあり、皆おおいに笑っていました)、また感動的なハイライトとなっていました。プライベートな葬儀の体裁が強く、形式的な権威主義的を嫌うNZらしいものに思えました。