Murray Francis Vincentとの、たった二日間だけの深い想い出

荒田利男

 一月の中旬にニュージーランドから一通の手紙が届いた。 毎年、カードを交換しているニュージーランドのダイアナからである。 いつもなら、暮れに届くはずが、何故か今回は遅かった。暮からの体調不良で根気が続かず、英文の手紙を半分だけ読んで、可愛い小さなカレンダーに見とれて、そのままにして置いた。 二月の終わりになって、一度、ハガキでも出そうかと言う気持になり、改めて彼女の手紙を読みなおした。

 するとなんとダイアナのご主人マリーが、マウント・クックで滑落、即死! こりゃ大変、えらいことになったと慌てたが、読み間違ってはいかん!と思い、知人にすぐ翻訳をしてもらった。 間違いなかった。

 日本ニュージーランド協会(関西)の行事の一環として、1994年8月、ウエリントンでのジャパン・フェスティバルに合唱団員として参加した。 私の初めての海外旅行と言えば淡路島??? いゃ、ニュージーランドである。 まだ、知り合って間もない呉橋さんが「ホームスティの経験したい人」と聞いてくれたので、友人の瀬川さんと二人でお願いした。 私は英語がほとんど話せないのに。

 ウエリントン空港で、タラップを降り、初めて異国の土地を踏んだ。 年甲斐もなく子供ように興奮した。マオリ族の人たちによるハカ・ダンスの歓迎には驚いた。 それから何処かの会場へ行くと、ホームスティ先のダイアナが、ニコニコと私たちを待っていてくれた。 何を話したか、多分、互いに日本語と英語で話したのでしょう。 早速、彼女の運転で自宅へ連れてもらった。 そこは広々とした邸宅で、朝なんぞテラスにウグイスがとまっていた。 写真を撮っても逃げない。

 さて、彼女宅での夕食。 ご主人のマリーに紹介してくれたが、瀬川さんがなにかカタコトで話しをしたものの、ご主人は、静かでほとんど問いかけてもくれない。 ところが、夜の10時過ぎ、彼が「ちょっといいものを見せてあげる」と言って、私たちを地下室へ案内した。 そこは、もうまるで森と都会のパノラマのような空間に、ミニチュアの鉄道が敷かれていた。 彼は、なんとも嬉しそうな顔をして、深夜の三時ごろまで、沢山の列車を見事に走らせて見せてくれた。 それはドイツ製のゲージであった。 その翌日の夕食時に、今度は、二三冊の写真集を見せてくれた。 その中には、冬のマウント・クックや他の険しいアルプスの山々での彼の登山姿。 そして、ツァイスのカメラを自慢そうに見せてくれた。 ところが、レンズを指で触っているのか、べ夕べ夕。「これは素晴らしいカメラだ。 もっと大切に使わないと!」と身振り手振りで話したら、彼は分かった分かったと言わんばかりにニコニコとうなずいていた。 自作のステレオ装置も聴かせてくれた。

 彼との想い出はそれだけなのに、何故か忘れられない。 たった二日間の想い出なのに、彼の嬉しそうな姿が想い出される。 彼は、62才であった。

 淡々と彼の死を綴ったダイアナの手紙に、とめどなく涙が溢れて止まらない。

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