Sir Edmundに関する記事

世界中がヒラリー卿の逝去を悼んでいます。主な記事を紹介します。

エベレスト初登頂、ヒラリー氏が死去 88歳(CNN) 

世界最高峰エベレスト(中国名チョモランマ)に最初に登頂したエドモンド・ヒラリー氏が11日、死去した。88歳だった。ニュージーランドのクラーク首相が同日、発表した。

ヒラリー氏は、ニュージーランド生まれ。高校時代に山登りを始めた。養蜂を営み、第2次大戦ではニュージーランド空軍に所属。1951年に英国の遠征隊に加わり、初めてヒマラヤ山脈を歩いた。53年に再び遠征隊員としてヒマラヤを訪れ、5月29日、シェルパのテンジン・ノルゲイ氏(86年死去)とともに、8848メートルの頂に立った。

頂上にいた15〜30分の間に、ヒラリー氏は十字架を置き、ノルゲイ氏の写真を撮影した。ノルゲイ氏がカメラの使い方がわからなかったため、頂上に立つヒラリー氏の写真は残されていない。

同年7月には、エリザベス英女王からナイトの称号を授与された。その後も冒険を続け、58年にトラクターで南極点に到達。67年には、南極大陸のハーシェル山に初登頂した登山隊に加わった。

晩年は、自然保護に取り組んだほか、ネパールで学校を建設し、シェルパたちの生活改善に力を入れた。06年には、死者を出しながらもエベレストの頂上を目指した登山隊について、「人名は山頂に立つことよりはるかに大切だ」「エベレスト登頂にかける態度が、恐るべき性質のものになってしまった」と厳しく批判した。

クラーク首相は、「ヒラリー氏はエベレストを制覇しただけではなく、意思の強さと謙虚で寛大な心を持ち合わせた英雄だった」と、ヒラリー氏の死を悼んだ

<E・ヒラリーさん>ヒマラヤ環境保全にも尽力
1月11日11時24分配信 毎日新聞

 88歳で死去した登山家エドマンド・ヒラリーさんは、33歳で世界最高峰のエベレスト(中国名・チョモランマ、8850メートル)に世界初登頂を果たした冒険家としての業績だけでなく、登山者の増加で自然環境が悪化したヒマラヤの環境保全にも力を尽くした。
 ニュージーランド生まれのヒラリーさんは、身長190センチ近い大柄で、養蜂業を営む傍ら同国最高峰のマウント・クック(3754メートル)周辺で登山の腕を磨き、1948年に同山南稜(なんりょう)を初登頂した。50年代に入り、英国などのヒマラヤ遠征隊に参加。ジョージ・ハント隊長(故人)率いる英国隊に参加した53年5月29日、シェルパのテンジン・ノルゲイさん(故人)とともにエベレストに初登頂した。

 このニュースは、6月2日のエリザベス女王の戴冠式前夜に世界に打電され、祝賀ムードに花を添えた。7月には女王からサーの称号を与えられた。その後も、改造した農業用トラクターで南極点に到達し、ヒマラヤでも遠征隊を率いて三つの峰の初登頂に成功した。
 一方で、エベレスト山ろくのシェルパ族の村の生活・教育環境の改善にも取り組んだ。60年に自ら慈善団体を設立し、以降はエベレスト登頂に協力したシェルパ族への謝意も込めて、ネパール国内に学校約30校、約15の医療施設を開設した。

 90年には「エベレスト登山を5年間禁止し、破壊された自然を復元させるべき」と提唱した。これが契機となり、環境保全のためのヒマラヤ・アドベンチャー・トラスト(HAT)が設立された。【飯山太郎】

 ▽日下田(ひげた)実さん(日本山岳会隊のマナスル世界初登頂時の隊員) 90年にフランスでの会合でご一緒したが、体の大きな人だった。マナスル遠征隊にはヒラリーさんのエベレスト初登頂を手伝ったシェルパがいた。彼らは「ヒラリーさんは体が大きくて力強く、我々がへばっていても引き上げてくれた」と話していた。チベットに学校を整備するなど、一登山家に終わらない人だった。

<ヒラリー氏死去>謙虚な人柄しのばれ…寛容な人柄愛される
1月11日20時11分配信 毎日新聞

 88歳で亡くなった登山家エドマンド・ヒラリーさんは、エベレストにその名を残している。1953年の世界初登頂時に乗り越えた山頂直下の垂直に近い約12メートルの岩場は、後進の登山家たちから敬意を込めて「ヒラリーステップ」と呼ばれている。

 エベレストの環境保全やシェルパ族の生活改善にも尽力したヒラリーさんだったが、ネパールでは悲劇にも出合った。75年3月、カトマンズの飛行機事故で妻と娘を失った。

 女性で初めて欧州3大北壁登はんを達成した医師で登山家の今井通子さん(65)はその事故の直前に、ヒラリーさんと会っている。「紳士的で気さくな人だった。家族が来るのを楽しみにしていた」と当時を振り返る。

 02年5月には息子ピーターさんが、ヒラリーさんと登頂したシェルパ族のテンジン・ノルゲイさんの孫
とともにエベレスト登頂を果たしている。

 また、エベレスト登頂をめぐっては、テンジンさんと、どちらが先に頂上に立ったかも論議を呼んだ。ヒラリーさんはテンジンさんが86年に亡くなるまで沈黙を続け、99年に著書で初めて自分が先だったと明かした。

 24年に頂上付近で消息を絶ったジョージ・マロニー氏(英国)の遺体が99年に発見された。「やはり初登頂者はマロニーでは」という声にも、「マロニーらの初登頂が証明されれば喜んで事実を受け入れる。それでも私には、登頂に成功して無事帰還した最初の人類という記録が残る」とコメントした。

 常に相手を立てることを忘れず、謙虚な人柄は多くの人に愛された。5ニュージーランドドル紙幣にはヒラリーさんの肖像が描かれるなど国民的英雄だ。ニュージーランドのクラーク首相は「決意と謙虚さ、寛容さに満ちた人生を送った“巨人”だった」と悼んだ。

 日本隊によるエベレスト初登頂などにかかわった宮下秀樹・日本山岳会会長(76)は「ヒラリーさんの初登頂時は正直『若い登山家の夢を奪われた』と思った。だが、その後何度かお目に掛かり、包容力のある人だと感じた」と話した。【飯山太郎、江連能弘】

サー・エドモンド・ヒラリーの死
1月16日19時13分配信 ツカサネット新聞

サー・エドモンド・ヒラリーが、1月11日オークランド病院で息を引き取った。88歳だった。
この日、オークランドのハーバーブリッジでも、南極のスコット・ベースでも、悲報をうけて半旗となった。

世界中で最も有名なニュージーランド人ともいわれる、サー・エドは、チョモランマことエベレストを、初制覇した登山家として知られている。

エベレストのあとも、南極、北極、ガンジス河と冒険は続いたが、ヒマラヤへの愛は深く、生涯ネパールのために尽力し、シェルパのために、ヒマラヤントラストを設立。病院や学校を建てた。

冒険家としての栄光の中、事故で家族や友人を失うことが重なり、悲劇の人としても知られている。

1975年、病院設立のため、先にネパール入りしていた、夫に会いに来ていた最初の奥さんと、三人の子供のうちの娘さんを、飛行機事故で亡くすが、その悲しみを乗り越えて、さらにネパールへの支援を続けていった。

1979年NZ航空の南極観光便に乗って、コメンテーターをする予定が、他の仕事があり、親友のピーター・マルグリューが代わりにその便に乗り、南極エレバス山に墜落している。その後この未亡人と再婚した。

国内的には、ニュージーランド人らしい、飾らない気取らないしわしわの笑顔の人だった。

5ドル札の若き栄光の登山者のサー・エドモンドよりも、年をとって、パパクラの養蜂場で、くしゃくしゃに笑いながら、奥様とTVでユーモア交じりに話している印象のほうが強い。

名声は、チャリティなど影響力を発揮できる場所で利用し、常に自分自身でいられたところが、キウイ的だったと思う。

子供があげる、NZのヒーローは、必ずサー・エドモンド・ヒラリーだ。この先も、これは変わらないだろう。

1999年に出版された、最新のサー・エドの自伝の中で、「自分は怖がりな人間で、死ぬときはできれば平和に死んでいきたい。オークランドのハウラキ湾のきれいな水に灰をまいてもらって、生まれ故郷のそばの、たくさんの楽しいビーチにゆっくりと流れ着きたい」という記述があり、火葬して、遺灰を撒く方向で、各機関が動いているという。

教会での葬儀は、パーネルのHoly Trinity Cathedralに隣接するSt Mary's in Holy Trinityで1月22日に行われる予定だ。

エベレスト初登頂のヒラリー氏国葬、ネパール・南極へも中継
1月22日20時24分配信 産経新聞

 【シンガポール=藤本欣也】世界最高峰のエベレスト(8848メートル)の初登頂に成功したニュージーランドの国民的英雄で、今月11日に心不全のため88歳で死去したエドモンド・ヒラリー氏の国葬が22日、同国北部オークランドで営まれた。葬儀の模様はテレビ中継を通じネパールや南極基地にも伝えられ、偉大な登山家・冒険家であると同時に慈善活動家でもあったヒラリー氏の死を悼む行事が各地で催された。

 葬儀が営まれたオークランドの教会には、ヒラリー氏と一緒にエベレストの初登頂に成功したネパール人シェルパ、テンジン・ノルゲイ氏(1986年死去)の家族ら約600人が参列した。

 クラーク首相は「サー・エド(ヒラリー氏)は最も著名なニュージーランド人であり、英雄でした。その決断力と謙虚さ、フェアプレー精神がこよなく愛されたのです」と故人をしのんだ。

 ヒラリー氏はオークランド近郊の出身。英国のエベレスト遠征隊に参加し、53年5月29日、ノルゲイ氏とともに、山頂直下に立ちはだかる約12メートルの岩壁を乗り越えて世界の頂きに立った。その一報はエリザベス女王の戴冠式を目の前に控えた英国に伝わり、国中が歓喜にわいた。ヒラリー氏は同年、英国王室からナイトの称号を授与されている。

 その後もヒマラヤ山脈で数々の高峰の登頂に成功したほか、58年には改造したトラクターで南極点に到達した。陸路での南極点到達は12年の英スコット隊以来の快挙。95年には英国の最高勲章であるガーター勲章を授与された。ニュージーランドの5ドル紙幣にも肖像画として描かれている。

 しかし、「私は普通のニュージーランド人」が本人の口癖で、身長195センチの大柄な体格に似合わず、謙虚な人柄で知られた。「シェルパ」としてヒマラヤ登山のガイドやポーターを務めるシェルパ族の人々への感謝の気持ちを忘れず、60年代に慈善団体を設立。学校や病院を整備するなど、シェルパ族が暮らす地域などの振興に貢献した。

 75年には、慈善活動中のヒラリー氏を訪ねるためネパールの村に向かっていた妻と娘を飛行機事故で失う悲劇にも見舞われたが、慈善活動はその後も変わらなかった。

 「私たちにとって彼は第2の父親。彼を失ったことはエベレストよりも大きく、そして重い」。国葬に出席したシェルパの1人はこう悲しんだ。
 ニュージーランドの国旗で覆われたヒラリー氏の棺には、エベレスト初登頂の際に彼が使ったピッケルが置かれていた。

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